神津小公開校内研修会 |
学校創りに挑戦して5年目。 集大成としての公開校内研修会。 13人の方が参観してくださった。 歴史に残る後悔、いや、公開だったと思います(笑) |
大島実戦事例研修会の講師 25日 大島実践事例研修会 講師として参加しました。 2つの学校で2時間ずつ授業させていただきました。 そのうち1時間は、70人の方に見ていただきました。 神津小でやっている「読み・書き・算」の授業を見ていただきました。 子どもががらっと変わる姿を見て、びっくりしている方が多かったです。 公開授業 28日〜3月1日 神戸の森實先生が来島。 杉渕学級並びに神津小を参観していただきました。 「来てよかった」とのことです。 そのうち、参観氣を書いてくださると思います。 3月1日〜2日 大島からお二人の先生が来島。 そのうち一人は、授業させていただいた学級の方です。 指導主事のS先生も来島。 杉渕学級でも、授業をしてくださいました。歌の授業です。 3月15日の公開授業に向けて さあ、次は、校内研です。 15日の校内研。 講師を呼ぶだけのはずが… あっという間に、ふくらんでしまいました。 なんと12人の方が、見に来てくださいます。 ビートルからは、佐藤さん、河合さん、阿部光江さん、鈴木さん、九貫さん 5人が参加してくださいます。 すごいですね。 ありがたいことです。 ※チケットはまだ残っています(笑) ★予定 詳細 最新版 神津小参観 15日(金) 5校時 全校基礎の時間 16日(土) 1校時 全校合唱 杉渕学級参観 15日(金) 4校時 基礎の時間 ・10マス計算 ・三色筋肉(100マス計算の連続) ・100題わり算 ・漢字…四字熟語 ・音読バリエーション ・一斉『海の命』、指名なし『生きる』 ・暗唱 いろいろ ・表現読み いろいろ ・歌 トレーニング 5校時 全校基礎の時間 後半 交流授業 ※1年生に10マスひき算を教える 6校時 基礎の時間 ・唱和 ・交流授業のまとめ ミニミニコンサート 『Believe』 『Tomorrow』 『友だちはいいもんだ』 『瑠璃色の地球』 『大地讃頌』 『夢をあきらめないで』神小バージョン SOHRAN 練習 発表 16日(土) 1校時 全校合唱 ・交流授業(読み聴かせ 6年生が1年生に) ・呼びかけ練習 2校時 卒業プロジェクト ・『道程』〜未来を拓く授業〜 |
未来を拓く授業 卒業するみなさんへ E. H 私は今回、武蔵野音楽大学に合格しました。毎日音楽だけをずっと勉強できると考えるとうれしくてたまりません。大学に入ったら、朝が苦手だけど絶対に早起きして、ピアノの練習をします。そして、ご飯を食べたら学校に行って、授業を受けて、終わったら、オーディオ室という所で色々な音楽を聞こうと思っています。そのあと、夜もピアノを弾いて、音楽について友達と語り合いながら眠る、そんな生活がおくれることを、すっごく楽しみにしています。 でも、試験に合格するまでは、本当に大変でした。何が一番つらかったかというと、一流の先生の前でピアノを弾くことの恐怖でした。特に人前であがってしまう私にとっては、かなりこわかったです。だから、多くの人の前で、ピアノを弾く機会を増やしてもらいました。失敗したことも、うまく弾けたこともありましたが、その中で私は、度胸をつけました。 そのおかげで、試験の時、集中してピアノが弾けました。合格発表の時、合格した人の名前は学校の外にはりだされます。その中に、自分の名前があった時の感動は、一生忘れません。本当に今まで、ピアノをがんばってきてよかった、と心から思いました。恥ずかしいことに私は、大学で大泣きしてしまいました。でも、それくらいうれしくてたまりませんでした。一生死ぬまで、ピアノと共に暮らしていこう、と心に決めた瞬間でもありました。 私は、小学校五年生からピアノを習い始めました。きっかけは、学校の休み時間に、友達が『小学校讃歌』を弾いているのを聞いて、自分も弾きたい、と思ったからでした。一番最初のピアノの先生は、その友達でした。休み時間に、いつも教えてもらっていた私は、その時間がとても楽しかったので、母にたのみ、ピアノを習い始めました。 私は、その頃、バイエルの一つの曲を、一日何回弾いたかわからないほど、くり返し、くり返しずっと弾いていました。一日で、その曲を暗譜して弾けるくらい、弾くことが楽しかったと覚えています。この頃友達は、小学校一年生からピアノを習っていたので、私とは比べものにならないほど、上手でした。少しくやしいという気持もあって、私は猛練習しました。 それでも友達は、私より上手で、発表会でも難しい曲をもらって、ずっとうらやましいなと思っていました。 中学へ入った年に、武蔵野音楽大学を卒業した先生と出会いました。その先生に音大に行きたいというと、すぐに、ソルフェージュというもののレッスンが始まりました。 ピアノの音を聴いて、楽譜にしたり、聴いたこともない曲を歌ったり、言葉の暗号のようなのを覚えたりしていました。そして、ピアノの方も、音を大きく弾いたり小さく弾いたり、軽い感じで弾いたりと注意され、大変でした。でも、注意されたところをできるようにがんばったことを覚えています。 そして、次の年に、今の先生と出会いました。その先生の初めてのレッスンの時、「正直言って、何から教えたらいいかわかりません」とはっきり言われてしまいました。そのくらい、ピアノの基礎というものができていなかったのです。その日から、二人の先生の徹底的な指導が始まりました。ピアノの方は、指をテープで固定することから始まり、音を出さずに弾くこと、リズムを変えて弾くこと、色々な練習方法を教わりました。そして、十曲近くもの宿題を毎週出されていました。必死で毎日、毎日練習しました。そのうちに、どんどん手が軽い感じになり、指が思うように動くようになってきたのが、自分でもわかりました。魔法にかけられたかのように、本当に不思議でした。人前で発表するたび、上手になったとほめられて、うれしかったです。しかし、周りの人が、私の発表を楽しみにしてくれればくれるほど、プレッシャーと緊張で発表するのが嫌になりました。 村だけでなく、東京での発表会に出たこともありました。その時、東京の子のピアノの上手さに驚きました。そして、私は思いっきり挫折を味わい、自分のピアノの下手さに、かなりのショックを受けました。もっと小さい頃からピアノを習っていれば、と何回も何回も後悔しました。 高校に入ると、さらに世界が広がりました。先生の出身校武蔵野音楽大学の勉強会へ、私は行きました。この勉強会では、自分のピアノの下手さ、さらに音楽の知識のなさを思い知らされました。私は、絶対に音大には入れない、と思わされるくらい、周りの人が上手でした。 高校三年生の終わりには、クラスのみんな、私をのぞいて全員進路が決まっていました。 自分だけ取り残された気がしたし、周りの期待に押しつぶされそうでした。試験の日が近づくにつれ、毎日必ず習いごとが入り、休む暇がありませんでした。テレビを見たくても、音楽をゆっくり聴きたくても、ピアノを練習しなきゃとか、勉強しなきゃとか気持ばかり焦っている生活を送っていました。クラスのみんなは、進路が決まっていたので、遊びほうだい遊んでいました。そのうち、私はなんでピアノをやっているのだろう と思ってしまった時もありました。しかし、やっぱり自分にはピアノしかないと思ってがんばりました。 今までピアノをやっていて、苦しかったこと、楽しかったこと、うれしかったことなどいろいろあったけど、やっぱりピアノをがんばってきたからこそ音大にも合格できたし、夢に大きく近づくことができたと思っています。みなさんも、自分のやりたいことや将来の夢、好きなことがあるのなら、それに向かって、ひたすらがんばってほしいと思います。夢をかなえるためには、苦しいこと、つらいことなどたくさんありますが、自分の好きなことのためなら、絶対に苦にならないと思います。だから、夢に向かって、日々努力してほしいと思います。 そうすれば、いつか必ず夢はかなう、私はそう思っています。 私のこの話を聴いて、一人でも多くの人が夢を持って、それに向かって努力しよう と思ってくれたら光栄です。 私は、涙が出て止まらなかった。 彼女の努力、苦労を5年間見てきたからである。 |
神津小参観氣 兵庫県N先生 こんにちは。 先ほど、自宅に帰って参りました。 本当にお世話になりました。 私は、氣というか、波動というか、 そういったことを感じたいと思いました。 神津小学校の子どもたちから出ている氣を 一番強く感じました。 芯が入っていますね。 なにげないことに、「思い」を入れていますね。 これは、ふと感じたのですが、 杉渕先生の学級の子ども達を見ていて 私がY小学校で6年生だった時の学級の様子に似ていると思いました。 (※当時、全国的に有名だった学校です。校長先生が超大物) たいへん感動しましたのは、子どもたちの音読であり、 歌であり、自らを鍛えていこうとする姿でした。 そして、杉渕先生の「自らが行う」という厳しい姿勢でした。 杉渕学級のビデオは、全職員で観せていただきます。 私の学校の実践は、神津小学校の実践を敷衍しているところが たくさんありますので、大いに発奮することでしょう。 ほんとうにありが゜とうございました。 神津小学校 杉渕学級参観記 1 教師の生き方 神津小学校の昇降口に入る一歩を楽しみにしていた。 靴箱の靴、傘立ての傘を見たかった。 傘立ての傘は、全てキチンと立っていた。開いている傘はなく、みんなクルリと丸め、とめてあった。 「傘はね、乱れていたら、私がキチンとしておきます。」 杉渕先生は、こう言われた。 靴は、きれいに揃っていた。揃っている靴は、その踵が下駄箱の板に揃っていた。 しかし、乱れていた靴もあった。次の日の朝、児童が登校する前の下駄箱を見た。見事に揃っている。 「乱れていたら私がなおします。」 傘の時と同じようにこう言われた。 二日目の朝、児童が登校する前、杉渕学級では机や椅子がキチンと並んでいた。 研究協議会で多くの字が黒板にあったのに、黒板はきれいに消してあった。消し跡すら残っていない。 杉渕先生は、私たちと少し話されて、すぐに掃除にかかられた。二階の端から丁寧に掃かれた。 私は、靴そろえや傘をきちんとしまうこと、掃除をするこことは、子どもにしつけることであると考えていた。言い方を変えると、子どもにさせることだと考えていた。子どもにしつけるためには、どうするかということが指導のスタートだった。 靴や傘揃え、掃除は、教師の生き方といえる。そういった毎日しなければならないことを黙々とやり続ける。例外なしにやり続けることが、初めてしつけへとつながっていく。 しつけとは、生き方である。 2 くだらないこと 大切なこと 全校合唱の時だった。中学年の子どもが悪ふざけをしていた。それほどたいした悪ふざけではないが、目に付いた。私なら、注意しているだろう。 杉渕先生は、その子さえ見ない。もちろん、杉渕先生には見えているはずだ。しかし、注意はされなかった。 また、六年生の呼びかけ練習で、呼びかけの内容が決まっていないグループがあった。子ども達は、あまり一生懸命には考えていないように見えた。私なら、一言二言、声をかけたであろう。しかし、杉渕先生は何も言われない。 私は、どうもマイナスに動いている方に目がいくと、プラスに持っていくために指導しようとする。それは、私が不安だからだ。その子達の今までの動き、これからの動きが見通せたら、そこで言う必要はない。 3 つまらない一言 よびかけ練習があった。杉渕先生は、一人一人をよく見ておられた。それぞれに応じて声をかけられていた。 「視線をまっすぐに」「足を開いて立つ」「胸を張る」こういった指示を私はよくする。特に、子どもの呼びかけを見て、パッと的確な言葉が出ないときに、こういう指示をする。その指示は、子どもには届かない。なぜなら、誰にでも当てはまる指示だからである。 杉渕先生は、子どもを見て、その急所をついて指示される。時には強く、時にはユーモアを混じらせて。誰にでもあてはまる「つまらない一言」がない。 4 凛としている 子どもの指導中、子どもへの愛想笑い、過分な褒め言葉などない。 凛としておられた。 5 氣が出ている 授業中、杉渕先生から氣が出続けている。 先生がだらしない格好になったり、休むために座ったり、窓の外を気にしたり、参加者に注意を向けたりということが全くなかった。常に、子ども達に体全体で氣を送り続けておられた。 目は、キョロキョロせず一点に。目からも氣が出ていた。 6 真似る 分数のかけ算とわり算の指導の時、杉渕先生は自分自身が言われたことをそのまま子どもに復唱させられた。 先生「分数のかけ算は」 子ども「分数のかけ算は」 先生「分母は分母同士」 子ども「分母は分母同士」 先生「分子は分子同士かけます」 子ども「分子は分子同士かけます」 杉渕先生の指導の特長の一つに、丁寧に、そして確実に真似させるということがあるのではないか。 7 いろんな子に褒め言葉 さりげなく、オーバーでなく、いろいろな子をほめておられた。 良いところを簡潔に、的確にほめておられた。 8 表現読み 『きつねのおきゃくさま』で表現読みを初めて体感した。私の指導していた表現読みは、もっとオーバーだった。自然なトーンで、声は腹から、一文の中でさえ役割が変わる。 一年生の前での表現読みはおもしろかった。一年生を取り囲むようにして読むと、4チャンネルステレオである。 子どもたちは、やや緊張したのか、一年生に目をやっていない子もあった。その後で、そのことも指導されていた。 9 歌 歌声は素晴らしかった。どうして、あのような声が出るのかと思った。 秘密は腹式呼吸にあるらしい。 10 音読 音読の声も、素晴らしかった。腹から声が出ている。そして、語尾が伸びない。 11 基礎計算 とても速かった。どの学年も速かった。その秘密はどこにあるのか。 その一つが10マス計算。 10マスから計算を始める。すると、どの子がどの計算でつまづいているかがわかる。 それを克服してから100マス計算に入る。 三色筋肉というプリントがある。一枚のプリントに×+−の100マスが載っていた。さらに、10回足し筆算もあった。 つまづいている子、速くできる子、それぞれがより速くできるシステムがあった。 12 30分の基礎の時間 研究協議会で佐藤先生が「神津小の基礎の時間の特長は、@スキル系Aゲーム系B二つをミックスしたものに大別できるようです。」と言われた。 それぞれの中の細かいメニューもおもしろい。 13 システム先行と子ども先行 基礎の時間、システム先行の学校もある。子どもの実態がどうであれ、同じスキルの内容を課すのである。 神津小は、子どもの実態によって、その内容が変わっているらしい。だから、昨年とも内容が違うようだ。 14 雑な字 マス計算で雑な字を書いていた子がいた。私は、心配だった。雑な字が他の学習に転移するのではないかと考えたのだ。研究協議会で、そのことが話題に出た。 ある先生が、「マス計算では字が雑な子も、写し書きはたいへん丁寧にしていました。それぞれの学習のねらいを把握しています。」 なるほどと思った。 15 いろいろな読み 唱和「四字熟語」 指名なし音読「生きる」 高速読み「いろはかるた」 古典「枕草子」 ステレオ「春望」 表現読み「きつねのおきゃくさま」 どれもすばらしいできだった。いろいろな読みがあるからいい。そして、全てが腹式呼吸でつながっていた。 16 交流授業 六年生が一年生に教えるの交流授業。初めて学習することなどを六年生が一年生に教えるのである。教師が教えるより、うまく教えるという。 しかし、教えるために、杉渕先生の指導の元に子どもが指導案さえもを作っているらしい。 17 夢 卒業生を招いての夢の授業は素敵だった。6年生が夢について語っていた。 卒業生が夢について語り、杉渕先生が夢について語っておられるから、子どもたちも夢について語ったのであろう。 教育とは、「夢に向かう力」をつけることといえるかもしれない。夢に向かう子どもを育てたい。そのために、教師が夢を語りたい。 18 国語の総合 「私は、今までずっと総合の指導をしている。総合が入ったからといって、したのではな い。総合が入ったから総合を指導するということは、どうなのであろうか。総合がなく なったら、きっと総合を指導しなくなるのではないか。しなくてはならないからするの か。必要だからするのか。国語で課題を作り、自ら解決していく学習も総合ではないの か。」 19 研究協議会 参観者が各学年の先生方と面談して、実践を聞く。こういう形式は始めてだ。こういうアイデアも、杉渕先生の指導力の一つでもある。 20 私は実践家 「私は実践家であって理論家ではない。目の前の子どもの力を伸ばすこと、子どもを変容 させることに全力を傾ける。」 杉渕先生は、こう静かに言われた。 A先生 歴史に残る1ページでしたね。 見事に成功した学校作りを見せていただきました。 神津小の子どもたちの学力は飛躍的に向上したでしょうね。 全校合唱もすばらしかったです。 学年ごとに音程も発声も正しくなっていく様子がよくわかりました。 特に6年生、杉渕学級。 空氣のちがいがよくわかりました。 歌はもちろん、呼びかけ、音読、唱和などの声の出し方がすばらしかったです。 子どもたちが考えた呼びかけ。とてもいいですね。 和やかな雰囲気でした。 全員が心を合わせようとしていること、そして6年生としての誇りを持っていること を感じました。 最初に聞いていた島の子どもたちの低学力、荒れ・・・ うそのようです。 そんな子どもたちを、ここまで高めることができた杉渕さんに敬意を表したい気持ちです。 本当にありがとうございました。 S先生 杉渕先生 メールをありがとうございました。こちらから出さなくてはと思っていたのです が、夜自宅についたとたん、ずうっと寝てしまいました。 杉渕先生のよ何十倍もきっと、事務仕事等時間がかかる私ですので、とにかく「行く」と言うことが私にとっての大きな夢でした。 このままではいけなくなってしまう。でも行かなくては、今までの自分から何も変わらない。と自分に言い聞かせながら、行くまでの毎日を過ごしていました。行けるだけで、精一杯でした。最初に個人メールをいただいたのに、お返事をせずに申し訳ございませんでした。その時はとにかく、「行く」と言うことが、大きな目的だったものですから。 行ってみて、本当に良かった。と言うのが一番の感想です。神津小の先生方は、みんな本当に、生き生きとしていました。若い先生方の、表情に全く無理が無いというのが素敵でした。また、一番楽しみにしていた、杉渕先生の授業。子ども達の第一声に、びっくりしました。 なんという、響くずっしりとした声を出せるのだろう。しかも、みんなの呼吸がさっとそろう。一人残らずの子供の姿勢がすっとしていて、無理もない、かわいらしい子供ども達であったと思いました。 また、杉渕先生のご指導は、瞬時に子供にわかる適切な言葉を、たとえを選んでいられました。先生の表情が本当に楽しそうで、本当に生き生きとされていると思いました。 最後の、道徳?の授業は、生の声が聞け、本当に感動してしまいました。私たちへのメッセージであったというのも、よく伝わって参りました。 子供達の夢の中に、「釣り船の船長になりたい」というものがいくつかありました。 私は、それを聞き、島の生活を愛している子供達なのだろうなあ。と思い、島でのくらしの生き方についても、杉渕先生が日頃の授業で伝えられているのだろう。と思い ました。 後ろに置いてあった作文に、杉渕先生に教えてもらって、こんな事ができるようになったと言うことが、自然にかかれていました。教師という物の、仕事はこういう物なんだと。思い知らされました。 K先生 こんにちわ 私の感想は、まず、 全体を通しての印象に近いことを書きます. (実は一日目、具合が悪くてボーっとしていたので…) (今日も花粉が多くてボーっとしていますが…) 二日目、Hさんという 島で初めて武蔵野音大に受かった高校生を呼んで行なった 「未来を拓く授業」 島の子どもにとっては 「夢をあきらめないこと」や 「夢を実現するための努力」 がそんなに大事なの? と思っていたのですが、 この授業全てに杉渕さんの5年間が投影されているなと 後で思いました. 実は行きの船の中で、 東井義雄氏のことが語られていました。 ツアーに参加した人ほとんどが この歴史に残る教師の著作を読んでいました. (私は恥ずかしいけれど 知らない…) この話のなかで印象に残ったことは、 東井義雄の「子どもの学力を伸ばすことが、村を変えること」 ということです。 この歴史的な偉業と鉄良君の取り組みが だぶって見えてきました。 神津小での杉渕鉄良を分析するキーワードはこれですね. 「子どもの学力を伸ばすことが、島を変えること」 明治以後、 日本の農村ならどこでも起こった 近代化との相克. 似たようなことは、今だに島にあるのでしょう. 否、もっと精神的な荒廃が起こっているのかもしれません. 閉ざされた空間. 閉ざされた人間関係. 文化の貧困さ. 自然の脅威…コンクリートだらけの島 こう考えてくると 杉渕さんの学校作りの重点の置きどころが見えてきました. 基礎の時間での成果. 学力テストや漢字検定での確かめ. 合唱の質の高さ. さまざまな古典の暗唱. バリエーション豊かな表現読み. それらを可能にする呼吸法、からだ作り. つまり、基礎と豊かな文化の伝授でしょうか… 子ども達は、 自分が何を学んできたか自覚していましたね。 子どもが育てば、島が育つことになりますね. 「未来を拓く授業」の中で、 『夢を実現させることは、島を捨てることではない』 というあたりも大事でした. Hさんは いずれ島の子ども達に音楽を教えたいと 語っていましたから… 板橋の学校で授業を見せてもらってから何年経つでしょう. 杉渕学級の子ども集団のありかたは あの頃よりもずーっと しなやかでした. ほっとしました. つくづく 行って良かったと思います. |