人間として
指導者として
専門家として



3つの修行
人間としての修行
  (情)
 

 人間としてどう生きるか ということです。

 教育の出発点、終着点はここにあり。
 「教育は、人にあり」
 「人の質にあり」
 です。
  
 これは、変わらぬ真理だと思います。

 器をいかに大きくするか これにつきます。

 結婚するとき、式を挙げてくださった牧師さんにいわれました。
「君は、よく切れる。しかし、薄っぺらいカミソリだ」
「分厚い鉈にならなければいけない」
 今は、どれくらいになったでしょうか。

 器を大きくするために
 いろいろな経験をすることでしょうね。
 苦労した分、器が大きくなるような氣がします。
 ここ2年、今までにない厳しい状況でした。
 以前の自分に別れを告げるためじっと耐えました。
 ※以前だったら、猛反撃したことでしょう(笑)
 ただし…まだまだ本物でありません。
 今、無理してた反動がきています。
 この夏師匠に叱られました。
「自分の潜在能力を引き出すこと。常にほほえんでいること」
 ・能力開発
 ・人格の向上

 子どものことを考える前に、まずは己自信に目を向けなくては…
 
指導者としての修行
  (意)

 指導者は、統率者でもあります。
 集団をまとめる力がないと、学級づくりはうまくいきません。
 この修行をおろそかにしている人が圧倒的に多いと思います。
 学級崩壊の主な原因だと思われます。
 集団を率いた経験がないと、失敗します。
 教師を目指す人は、何かのキャプテンをやるといいと思います。

 私の場合、少林寺拳法部の主将、道場での少年部の指導、マンションの管理人など、いろいろな経験が役立っています。

 指導者としての心構えができていないとうまくいきません。
 いくら本を読んでもダメです。
 実際に経験しなければ。

 みんなをまとめる、束ねる、ひっぱっていくというのは、かなり難しいことですね。
 ・圧倒的な実力
 ・人望
 ・指導力(精神面、技術面)

 
専門家としての修行
  (知)

 知識を増やす。
 授業レベルに具体化する ということです。
 学者と決定的に違うところですね。
 教師ならではの修行
です。

 ・いろいろな教科に精通している。 広さと深さ
 ・教え方。
 
 いろいろなことを知っていることも大切です。
 ただ…今、勉強している人が少ないような氣がします。
「ぼくは、勉強しているよ」
と、自慢している人の話を聴きました。
 うーん、話になりませんでした。
 知識レベルにおいても、圧倒的に勉強不足。
 なにしろ、「斎藤喜博 知らない」というのですから、