発問研究 『ごみ問題ってなあに』 5年生 |
ごみ問題ってなあに 嘉田由紀子 @「ごみ」ってなんでしょう。いつもあまり考えずに使っている言葉ですが、意外と説明はむずかしいものです。いっしょに考えてみましょう。 ・@だけを読ませて 「ごみ」と「ごみでないもの」どこで区別していますか。 ものがごみになる(もの→ごみ) どんな場合があるか。 ごみがものになる(ごみ→もの) どんな場合があるか。 「ごみ」だと思うのは、だれか。 (例)自分、他の人、みんな 迷惑になる「ごみ」、迷惑にならない「ごみ」 ・ Aあなたたちの教室のゆかに、えんぴつが一本落ちていたとします。それに名前が書いてあれば持ち主が分かりますから、えんぴつは持ち主に返されて、ごみにはなりません。もし、そのえんぴつが道ばたに落ちていたらどうでしょう。だれかが拾って学校にとどけてくれ、持ち主にもどされれば、ごみにはならないでしょう。でも、そのえんぴつがみぞに落ちて流され、どこか川べりに流れ着いたら、まだ書けるえんぴつだとしても、ごみになってしまうでしょう。 「えんぴつが一本落ちていた」について どんな鉛筆か。 ※新品か、まだ長いあまり使っていない鉛筆、かなり使っている鉛筆 持ち主は、鉛筆がないことに氣づいているのか、いないのか。 鉛筆を探しているのか、探していないのか。 「いいや、見つからなくても」と思っているのか。 「何とか見つけたい」と思っているのか。 返された鉛筆はどうなるか。 持ち主が使う、捨ててしまう。 Bこのように、「もの」としての性質が変わったわけではなくても、人とのかかわりが切れ、だれも使う人がいなくなったとき、物はごみになってしまいます。 『「もの」としての性質が変わる』→具体的に言ってみよう。 (例)書けなくなる、書きにくくなる。役に立たなくなる。 鉛筆以外でも。 『人とのかかわりが切れる』 「かかわりが切れる」のか「かかわりを切る」のか。 ※使いたいけど、もう使えない。→仕方なく 「切れる」 まだ使えるけど、「もういいや」→意図的に 「切る」 どっちの場合が多いか? 「切れる」と「切る」 もし自分が、その鉛筆だったら… それぞれ、「切れた」場合、「切られた」場合を考えよう。 Cまた、まだ使えるえんぴつであっても、あなたが「もう、このえんぴつはいらない。」と思うと、そのえんぴつはごみ箱にすてられて、ごみになってしまいます。「もの」として利用できても、わたしたちが「不要」とみなすことで、ごみになります。物は人の意識の中でごみになってしまうのです。 「不要」になる場合→どんなときか(「不要」と見なすのは、どんなときか。 (例)氣に入らない、使えなくなった、あきた、役に立たない 人に譲ってと頼まれた、新しい物を買った など Dこのように考えてくると、「もの」として、本来ごみである物はほとんどないことが分かります。にもかかわらず、大量にごみを出しつづけているのが現代の日本です。 ・どっちが多いか。 「もう使えなくなった」→仕方が無く「ごみ」になる。 「不要」→まだ使えても「ごみ」になる。 以前の日本も、ごみが多かったのか? Eこれに対して、物とのかかわりを大切にし、かんたんには、ごみを出さない社会がありました。日本の江戸時代です。江戸時代には、物がこわれたら直してつかうために、「修理・再生業」がたくさんありました。例えば、あなが空いたなべは「いかけ屋」、われた茶わんは「焼きつぎ屋」という職人がいて、こわれた物を直してくれました。また、わたしたちならすててしまうような物を集めて使ったり、必要なところへ運んだりする「回収せんもん家」もいました。例えば、今は水洗便所に流してしまう人間のし尿も、農業の肥料に利用するために集めて、農村に運ぶ人たちがいたのです。また、川岸やはまべに流されてきた木切れなども拾い集められ、おふろの燃料に使われました。実は、このように修理・再生したり回収したりする仕組みは、五十年ぐらい前まで生きていました。ですから、当時は町や川岸にはほとんどごみがありませんでした。 江戸時代と平成の時代をくらべてみよう。 どうして、こんなに変わってしまったのか。 今の時代の矛盾点 ・修理するより、新しく買った方が安い。 同じ日本との比較 時系列(時代で比較) F海外に目を向けてみますと、今でも、物を大切に使い、ごみを出さない社会があります。わたしは、アフリカのマラウイという国に毎年出かけ、そこの子どもたちのくらしぶりを研究しています。マラウイの子どもたちは、身近にある物を実にうまく工夫して、遊び道具などを作って楽しんでいます。例えば、わたしたちがごみとしてすててしまうビールびんのふたを、たくさん集めて「数遊び」に使ったり、平らに広げて「びゅんびゅんごま」を作ったりします。ペットボトルも、魚をとるときのあみのうきに「転用」したり、遊びのための船に「変身」させたりします。子どもたちが、一度使われた物をじっくり見て、その使いみちを工夫する力には、いつも感心させられます。ほうっておけばごみになってしまう物たちに、思いもかけない新しい命をふきこむのです。 状況が違うので難しい… 有り余る物がある。物があふれている中で…「マラウイ」のようにできるのか。 「マラウイ」の子が、東京にきたらどうなるか。 お金があったら、どうなるか。 変わるか、変わらないか。 「新しい命をふきこむ」→この意味を考えてみよう。 人間で言えば〜、ぼくたちで言えば〜、自分のことで言えば〜 「この子はできない」→命を吹きむと → G江戸時代の人たちやマラウイの子どもたちのくらし方について、貧しくて物を買うお金がないからだと言う人がいます。確かに、そのような面もあるでしょう。でも、物を修理・再生したり回収したりしてごみを出さない江戸時代の人たちや、物を「転用」したり「変身」させたりするマラウイの人たちの生活からは、自然に負担をかけずに、その中でくらす豊かさが感じられます。それに何よりも、遊び道具を作り出すときの子どもたちの目には、わたしたちがわすれてしまったかがやきがあります。それに対して、なんでもすぐにごみとしてすててしまう今の日本の社会では、増え続けるごみが自然をこわし、美しい風景をだいなししたり、水や空気をよごしたりして、わたしたち自身の生活にとって、大きな問題となり始めています。豊富な物に囲まれていても、この社会では、物を大切にしようとする心が失われようとしているように思われてなりません。 有り余る物がある中で、「もの」を大切にするには? だれが、実行するのか? どのように実行したらいいのか。 先ず、始めにできることは? ・自分、家族 ・クラス、学校 H今、日本人は、一日に一人平均一キログラムのごみを出すといわれています。一年で360キログラム以上です。このことを考えたとき、わたしたちがごみとして、そのかかわりをたち切り、見すててしまった「もの」たちに、再び命をふきこみ、それらを生かし続けるための知恵と工夫は、ごみ問題を解決していくための重要な第一歩になるのではないでしょうか。 筆者の主張に対して、自分の考えを書く。 「ごみ問題」解決→他にどんなことがあるか。 第二歩は、どんなことか。 I日本にかぎらず先進国といわれている多くの国では、大量のごみが出され、今や、エベレストの頂上から南極・北極にまで、ごみは増え続けています。みなさんは、どう思いますか。 このような現状を知っていたか。 初めて知って、どう思ったか。 インターネットなどで、ごみ問題について調べてみよう。 自分ができることは何か、考えてみよう。 |