意識と無意識 |
意識と無意識 3学期の始業式の日、教室にはいると開口一番、 「靴はそろっていますか? 自信がない人は見に行ってごらん」 といいました。 全員が見に行きました。 がたんと大きな音を立て椅子を出しっぱなしでいく子、静かにいく子様々です。 子どもたちの意識は「靴がそろっているかどうか」にいっています。 だから、教室を出るときの行動は無意識という子が多いのです。 そんな中で、出しっぱなしの椅子をきちんと入れてから靴を見に行った子が5人いました。 わずかなことにもその子の実力が出ます。 無意識の行いが本当の実力なのです。 子ども達が帰ってきました。 「今、みんなの意識は『靴をそろえる』ことにいっていました。人間は一度にいくつものことに集中できません。だから、『靴がそろっているかな』と思った瞬間、頭は靴のことでいっぱいになり椅子のことは忘れてしまうのです」 次のように板書します。
「あなたは1〜5のうちどれでしたか」 「1と2の人は、無意識に行動したね。いつもは意識して椅子をそろえていても、意識しないと元に戻ってしまうのです。3〜5の人は意識してやった人と、無意識にやった人に別れます。意識してやった人は、かなり身に付いてきている人です。無意識にやった人、この人は相当高いレベルに達しています……」
道元の言葉です。 日常生活の中での行動を振り返ってみましょう。 あなたは、呼吸、まばたき、歩く、歯磨きなど、一つひとつを明確に意識してやっているでしょうか。やっていませんよね(笑)ほとんどの場合無意識でやっていますね。
ではないでしょうか。 子どもをこうしてやろうと思ったときは、意識してやっています。 それなのに日常行動は無意識にやっているのはどういうことでしょうか。 どちらの自分が本当なのでしょう。 当然後者です。 化けの皮がはがれる、地金が出る、メッキが剥げるというのは、いずれも無意識の行動をとったときに起こります。 道元はいいます。 「覚知にまじわるは証則にあらず」 これは、意識したものに本物はないというような意味です。 子どもに教えよう、子どもを育てようと意識すればするほどうまくいかないことがあります。 反対に、何の氣なしにいった言葉が子どもの琴線にふれることもあります。 意識してやる方がいいか意識しないでやる方がいいか、どちらがいいか一概にはいえません。
たとえば、子どもウォッチング、はじめは、この子のいいところを見つけるんだと強烈に意識します。 大ざっぱに見ているとよくない点ばかりが目につきます。 表情、反応、行動の一つ一つを細かく見ていくことによっていい点、意外な点を発見します。 しかし、意識しないと見えなくなってしまうのです。 また、意識します。 これらを繰り返します。 やっていくうちにだんだん意識しなくてもいいところが見えてくるようになります。 見よう→目に入ってくる、つまり、向こうの方から情報が飛び込んでくるのです。 これが、ぱっと見てわかる状態です。 瞬間的にわかる状態です。 意識しなくてもできるのです。 身についたということでしょう。 自分が教師だということを忘れてしまう瞬間があります。 子どもたちの話し合いの一員となってしまうときがあります。 「いいこというなあ」「なるほど、そうかんがえていたのか」「ふーん」、ハッと我に返ると「そうだ、授業をやっていたんだ」 靴をそろえているとき、頭の中が空白になりなんともいえないいい氣持ちになることがあります。 ハッと氣づくと「そうだ、靴をそろえていたんだ」 これは、瞑想状態に近いですね。 そんなとき、子どもたちはぐんと伸びています。 自分もいい氣持ちになりエネルギーがあふれてくる感じがします。 |