上 達 論



  教師上達論   私の教師修業
                            

 
 教師になった以上、子どもにとって価値ある教師になりたい。
誰もが思うことだろう。
 ただし、実現するかどうかは、その人の努力にかかっている。
 今回のテーマは、上達論。
 新卒から10年間の教師修業を振り返ってみたい。
 その中に、上達に関わることがあるはずである。

 新卒のころから、仕事量はすごかったようである。
 自分では、その自覚がない。
 熱心だという人とくらべてみると、圧倒的な違いがあった。
 1日24時間すべて教育に使っていたことは確かである。
 起きてから寝るまで、教育のことを考えている。
寝ても考えていたと思う。
 たとえば、次のことをしていた。
 ★毎日記録を書く
 ・原稿用紙20枚程度の実践記録。
 ・一人ひとりの記録(全員分)。
 ・寝る前に、一人ひとりの姿を思い出す。
 学級通信は、毎日発行した。
 多いときは、1500号を突破した。
 ★教材研究
 暇さえあれば、教科書を見ていた。
 見開きで、発問を100つくった。
 必ず、指導案を書いた。
 一番たくさん書いたときは、一単元で1000枚(原稿用紙)くらい。
 ★聴く
 どれかの授業(1時間)のテープを聴く。
 テープを聴き、授業の反省を書く。
「これは、私じゃない」
 あまりにも下手くそだ。
「いや、私である」
 認めたくないが、認めざるを得ない。
 しゃべりすぎ、不明確な指示、叱りすぎ…
 すべて、イメージと違っていた。
 自分では、けっこういいと思っている。
 聴くと、イメージと実際のズレを感じる。
 感じるどころではない。
 強烈に突き刺さる。
 いいわけができない。
 毎日聴くと、変革を迫られる。 
 ★実践開発
 新卒のころから、自分流の実践を創ろうと思っていた。
 形になってきたのは、7年目か?
 「基礎の時間」「横軸の時間割」その他いろいろ。
 しっかりした形になったのが10年目。
 やはり、自分を創るには10年かかる。
 ★サークル
 多いときは、8つのサークルに入っていた。
 はっきりいって、やり過ぎである(笑)
 どのサークルにも、必ずレポートを持っていった。
 法則化「東京青年塾」での1年間が大きい。
 向山先生に、1年間みっちり学んだ。
 いつも「量だけだね」といわれていた。
 「いつか見返してやる!」
 ★研究授業
 進んでおこなった。
 4年間で、100回を突破。
 10年間で、300回くらいしていると思う。 

 10年間、仕事に没頭した。
 家族、親戚からは、大ブーイング。
 それはそうだろう。
 しかし、10年間の蓄積は大きかった。
 今の私があるのは、あの10年のおかげである。

 今回の視点は、量である。
 圧倒的な量である。
 「圧倒的な量は、質への転換をはかる」
 例として、発問研究を取り上げることにしよう。

 ◆100問つくる
 東京青年塾(サークル)には、毎回参加した。
 一次会は、ぼろくそにいわれる。
「量だけですね。次いきましょう」
 検討してもらえない。
 屈辱である。
 二次会(飲み会)で、もう一度アタックする。
 そこで、一言アドバイスをいただいた。
「教科書見開き2ページで、発問を100つくりなさい」(向山洋一先生)
「そんなにつくって、意味があるんですか」
「どのくらい続ければいいのですか?」
 いっしょに聴いていたメンバーたちは、質問した。
 向山先生は、答えなかった。
「まあ、やってみてください」
 やらなければ、わからない世界がある。
 私は、さっそくその日から発問づくりをはじめた。
 帰りの電車の中で、教科書とにらめっこしながら発問をつくった。
 この作業は、5年間続けた。
 毎日5年間、よく続いたものである。
 あきらめないのが私のとりえかもしれない。
 
 毎日100つくる中で、いろいろなことがわかってくる。
 理屈ではない、頭ではない。
 肌である、感覚である。
 ・「100問つくり」で、勘が磨かれる。
 ・「100問つくりで、情熱を試される。
 
 ◆発問研究
 100問つくりと並行して、次のことをおこなった。
 斎藤喜博先生の著作をすべて読む。
 最低10回、普通、30回くらいは読む。
 発問のところをマーク(黄色いマーカー)し、付箋を貼る。
 次に、その部分を書き写す。
 当時は、パソコンなど影も形もなかった。
 当然手書きである。
 時間を決めて、毎日続けた。
 えらく時間がかかる作業だった。
 抜き出した発問を、分類する。
 自分なりにグルーピングする。
 共通するものはないか、原則はないか?
 探りながら作業を続けた。

 愚直な努力が形になるときがきた。
 夜中にもかかわらず、私は大声で叫んだ。
「これだ!」
 ついに、発問の秘密を解いたのである。
 わかってみれば、簡単なことだった。
「なんだ、そうだったのか」
マジックを舞台裏から見るようなものである。
 コロンブスの卵だった。
 才能ある人なら、すぐにわかったかもしれない。
 凡人の私には、3年の歳月が必要であった。
 このような努力をしなければ舞台裏はのぞけない。
 愚直な努力は、「舞台裏への最短ルート」である。
 秘密がわかってからも、毎日、毎日同じことをくり返した。
 分類し直す。→原則を考える。→発問をつくる。

 発問の秘密がわかったといって、すぐ活用できるわけではない。
 自分の実践に活かしてこそ意味がある。
 「わかっているが、できない」状態だった。
 「できる」ようになるまでには、時間が必要だった。

 毎日、発問を100考える。
 その中から、いいものをセレクトする。
 うまくいくこともあれば、いかないこともあった。
 斎藤喜博先生の場合は、ほとんどうまくいっている。
 どこが違うのか?
 あるとき、氣づいた。
 発問だけではダメなのだ。
 発問をするまでの布石を打たなければ。
 ここぞというタイミングで発問しなければ。
 ・お膳立てをする。
 ・タイミングを考える。
 当たり前のことに、ようやく氣づいたのである。
 それからは、「発問までの布石」をどうするか考えるようになった。
 布石が効き、タイミングがあったとき、初めて発問は力を発揮する。
 
 私の発問は、がらっと変わった。
 教材を一読するだけで、発問浮かびあがるようになった。
 圧倒的な量が、質へと転換した瞬間であった。