教師修行 中級編のキーワードは、蛻変(ぜいへん)です。 今までの自分の殻を破り新しい自分になることを蛻変といいます。 現在の自分に満足できなくなっているあなた。 自分を変えることができるのはあなただけです。 |
違う視点に立つ 一段上の立場から、自分の実践を見直しましょう。 または、違う立場から自分の実践を見てみましょう。 その立場に立って初めてわかる…これでは遅すぎます。 想像するのです。 たとえば、校長の立場に立って自分のことを見るのです。 たとえば、教務主任、学年主任の立場に立って自分を見るのです。 たとえば、用務主事さんの立場に立って見るのです。 専科の立場で見るのもいいですね。 もちろん、親の視点でも見てみましょう。 つまり、角度を変えて見るのです。 円柱を上から見ます。 円に見えますね。 横から見ます。 長方形に見えますね。 このように、角度を変えて見ると、今まで見えなかったことが見えてきます。 担任は、「木を見て森を見ず」になることが多いのです。部分的はよくても、全体的に見るとよくないことはたくさんあります。 1つの視点(自分の視点)で見るだけでは、このことに氣づきません。なぜって、自分はいいと思ってやっているのですから。 独りよがりになっていることが多いのです。 特に、うまくいっている場合。 知らず知らずのうちに、思い上がっています。 自分の視点でしかものを見なくなります。 ※私の場合、これでよく失敗します(笑) 「絶好調のとき視野は狭くなる」 違う視点に立つ。 これは客観的に自分を見ることでもあります。 いかに自分がわがままをいっているか、人のことを考えないでやっているかが見えてくるでしょう。 違う視点に立って、自分の実践を見てみましょう。 いろいろなことに氣づくと思います。 授業も同様です。 私の場合、いろいろな自分をつくります。 親になる 参観者になる 師匠になる 子どもになる など、いろいろな角度から授業を見ます。 前から 横から 後ろから 上から 見ます。 いろいろな角度で見ます。 普通は、前からしか見ていません。 いつも同じ角度から見ているのでは、新しい発見はありません。 角度を変えてみてみましょう。 違う視点から、見てみましょう。 といっても、実際にやらなければ意味がありません。 具体的に行動してみましょう。 ここが難しいです。 実際に行動する人は、100人に一人でしょうか。 |
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教育はサービス業 教育とはある意味でサービス業です。 子どもを育ててなんぼの商売です。 それなのに、「子どもが悪い」というのはどうしてでしょうか。 平氣で口にする人が多いですね。 自分のことを棚に上げ人のせいにする。 プロ意識がありません。 学期末になると… 「この子できない」 という話が出ます。 できない子をできるようにするのが教師の仕事です。 子どもができないのは、教師の責任です。 子どものおかげで給料をもらっているという発想がないのでしょうね。 あなたがホテルのマネージャーだとしましょう。 「このホテルがはやらないのは、客が悪いからだ」 といいますか。 いわないでしょう。 お客様にきていただくために、いろいろと考えるでしょう。 そうです、子どもはお客様なのです。 三波晴夫さんではありませんが「お子さまは神様」なのです(笑) 子どものせいにしてはいけません。 責任は教師にあります。 どの子も伸ばすのが、教師の使命です。 それでお金をもらっているのです。 子どもが伸びないのは教師の責任だと実感したとき、教育は始まるのです。 なかなか実感できないですね。 そういうシステムになっていませんから。 いいお店にいってみましょう。 氣配りがいき届いているでしょう。 環境1つとってもそうです。ゴミがないでしょう。いつもきれいでしょう。 (ところで、あなたの教室はきれいですか) サービス業から学ぶことはたくさんあります。 お客様を怒鳴りつけるサービスはいりませんね。 子どもを伸ばしてなんぼです。 伸ばして当たり前なのです。 「一生懸命やる」のは、当たり前なのです。 どれくらい子どもを伸ばせるかが勝負です。 どうせやるなら「一笑懸命」。 |
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学び愛(学び合い) 親は、我が子から学んで親になります。 教師も同じです。子どもから学んで教師になるのです。 教育は共育でもあります。 芦田恵之助先生の言葉ではありませんが、
これです。 子どもを教えることで、私たち教師はいろいろなことを学びます。 いろいろな子がいます。 一人として同じ子はいません。 その子一人ひとりが師匠です。 自分のいたらなさ、未熟さを教えてくれます。 教えることは学ぶこと。 これが実感できたとき、自分が変わります。 といっても、よくわからない人もいるでしょう。 子どもから学ぶとは、どういうことでしょうか。 まずは、考えてみてください。 荒れた学級、大変な子を受け持ちます。 今までの経験、修得した技術が通用しません。 「こんなはずじゃない…」と思ってしまうことはありませんか。 ラッキーですね。あなたは運がいい。 荒れた学級、大変な子は、あなたの腕を上げるために出現したのです。 腕を上げる絶好のチャンスなのです。 今までの自分が通用しないのですから、考えます。工夫します。 どうしたら、学級がよくなるか どうしたら、この子がよくなるか 必死に考え実践します。 このような経験を積み重ねることで、どんな子にも対処できる「幅」ができていくのです。 これが、共に学ぶということではないでしょうか。 今は、大変な子がくるとわくわくします。 |
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知識の教育から人間教育へ 心を育てましょう。 知識注入の教育は終わりました。 最近は、当たり前になりましたね。 人間教育が大事です。 人間教育とは、「いかに生きるべきか」を教え、考えさせ、行動させる教育です。 総合的な教育です。全人教育です。 教育とは、人格形成でもあると思います。 ただし、心を育てる教育は言葉ではできません。 教師の行動でしかできないのです。 人間として当たり前の行動ができる子を育てましょう。 老人に席を譲る、落ちているゴミを拾う、自分からあいさつをするなど。 できていますか。 できていないでしょう。 当たり前のことが当たり前にできる、これはかなりのレベルです。 これをできるようにするのが、人間教育でもあるのです。 授業を通して、人間を育てる これが、教師の使命です。 |
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対処療法から根本療法へ 現象を見て指導しても、子どもはよくなりません。 「廊下を走るのをやめなさい」 といっても、その子を走ります。やめるのはその場だけです。 「勉強しなさい」 といっても、その子は勉強しません。やるのはその場だけです。 このように、その場その場で対処しても、根本は変わりません。 自分のことを考えればよくわかりますね(笑) 人間が変わるのはただ一つ、「自分で変わろう」と思ったときです。 子ども自身が「廊下を走るのをやめよう」「勉強しよう」と思ったとき、行動が変わり始めます。 根本を変える努力をしましょう。 枝葉末節をいじっても、子どもは変わりません。 では、根本とは何か? どうしたら根本が変わるのか? まずは、自分で考えましょう(笑) |
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観察眼をみがく 見る目を鍛えましょう。 眼力をつけましょう。 たとえば、古畑任三郎(知っていますか)は、普通の刑事に見えないものが見えます。 自分の力の範囲でしか、物は見えません。 存在していても見えません。 実力がないと、少しのことしか見えないのです。 自分の都合でしか、ものを見られないのです。 子どものいい点が見えないのです。 困ったものですね。こういう人に限って、「私は子どもをよく見ています」というのです。 子どもを見るとは、どういうことか。 これまた、考えましょう。 なんか、「考えましょう」のオンパレードですね(笑) でも、自分で考えるのは大切なことです。 努力しないで教えてもらおうなんていうのは虫がよすぎます。 楽して手に入れたものは身につきません。 そのときできても、テストになるとからっきしできない子がいますね。 それと同じです。 毎日、一人ひとりを見ます。 記録します。 ノート、座席表、何でもけっこうです。 書き続けていると、見えてくることがあります。 そうなると、予想して子どもを見るようになります。 予想が当たっていれば、見る目が確かになってきたということです 当たらなかったら、どうして外れたのかを考えます。 また、予想します。 私の場合、これをくり返していますね。 今は、外れることが少なくなりました。 その子の奥にあるものが見えるようになってきました。 といっても、ほんのわずかです。 しかし、このわずかな差が決定的になると思います。 |
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教師からサポーターへ 教えることは教えるが、もっと大事なことがあります。 それは、子どもは本来すばらしい力を持っているということです。 教師は、子どもが力を発揮できるように指導すべきです。 「教える」などというのはおこがましい考えです。 実力がない人に限って教えたがります。 私もその一人です(笑) 教えようと思うと、子どもに入っていきません。 教えようという思いがなくなったとき、スッと子どもに入ります。 不思議ですね。 これぞ共育。 |
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じっくり育てる 学級づくりははじめの3日間が勝負 といわれます。 確かにその通りです。 しかし、それは、初級のレベルでの話です。 短時間でつくったものは、短時間で崩れます。 促成栽培は、しょせん促成栽培なのです。 じっくり育てたものにはかないません。 醤油しかり、ウイスキーしかりです。 熟成が大事なのです。 それがわかっていても実行となると難しいですね(笑) ついつい早く成長させようと思ってしまいます。 種をまいた次の日に、実を採ろうとしている人がなんと多いことか… ある程度学級を育てることができる人は、じっくり育てることへの転換をしませんか。 「形」になるのに時間がかかります。 しかし、子ども自身が自分を変えていくので、変わったときは本物です。 2学期も終わり、そろそろはっきりしてくるでしょう。 その差は明確になってきます。だれの目にも明らかになります。 3学期ともなれば、いいわけはききません。 子どもたちの姿に、あなたの教育が、寸分狂わずに出ています。 教育は、怖いです。 促成栽培は、一定以上伸びません。むしろ崩れてきます。 終業式での子どもの態度を見ましたか。 すばらしい学級とそうでない学級の差は歴然としているはずです。 あなたの学級は、どちらでしたか。 |
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論理から直観へ 何をあてにしていますか。 本、えらい人のいうこと→そうではなく、自分の心からわき出るもの、それを重視しましょう。 「あの人がこういった」 「本に書いてある」 とんでもない。一般例を学級に当てはめてはいけません。 私も、大失敗した経験が数多くあります(経験者は語る)。 自分の直観よりも、権威を優先してしまったのです。 何度失敗しても、権威優先をしていた時期が長かったですね。 10年過ぎたころでしょうか。 自分の直観を優先するようになったのは。 とどのつまり、自分に自信がないということでしょう。 あなたの学級は、世界でたった一つしかないんですよ。 あなたが考えないで、だれが考えるのですか。 目の前の子どもを見て考えましょう。 これが「子どもに学ぶ」ことの一つです。 |
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自分で考える 追試(人まね)は、勉強になります。 しかし、力はつきません(※ 初心者を除きます)。 あくまでも借りものだということを忘れずに。 ある程度の基礎ができたら、自分の頭で考えましょう。 自分の中から生み出されたものが本物なのです。 といっても、追試すらやらない人もいますね。 (^^;; そういう人に限って「(子どもに)自分で考えなさい」といっています(笑) 脳が汗をかくくらい考える これでこそ、身につく勉強になるのです。 「急がば回れ」 は、至言です。 |